* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

水島 銕也

近代経済界に新しい息吹→商業教育の基礎を築く

3回生
(明治17年卒)
ニックネーム
愛庵先生
関係著書
「銀行及び外国為替」(自著)


・ 開校3年目の神戸商業講習所(現県商)に入校
・ 卒後、旧中津藩の育英機関「中津開運社」の給費生となって外国語学校付属高等専門学校(東京高商→現一橋大)入学
・ 卒後、高商の教壇に立ち、府立大阪商業学校(現大阪市立大)校長心得になったが、人事など、摩擦の多い仕事に疲れたようで、 校内改革を果たすや突如、実業界に転じ、25年に横浜正金銀行に入り、2年間ニューヨークに勤務する。しかし、思い切ったはずの 教壇が懐かしくてたまらない。
・ そこへ東京高商から復職の誘いがくる。病気だったこともあって、銀行を辞職、7年ぶりに母校の教壇に立った。
・ 講義は真面目なばかりで面白くないが、商業教育にかける熱意が伝わったせいか教室は学生で満員となる。
・ 神戸高商設立委員となり、画期的な二部制を導入し、1部は中学校卒業生、2部は商業学校卒業生を入学させる。(猛烈な反対を 説得して商業学校卒業生に進学の途を開いた。)
・ 明治36年、39歳の若き校長だった。(東京高商専攻部への進学の途をつけ、研究指導制度(ゼミナール)を発足させるなどの 手腕が評価されたためもあるが、何よりも、学生に慕われたことから「水島の学校・葺合村塾」と人々は呼んだ。
・ 自宅を開け放って学生を迎え入れる、自ら奔走して就職の世話をする、謹厳そのものでありながら銕也をもじって「愛庵」 アイアン(鉄)と号するなど、ユーモラスな一面が学生を惹きつけた。
・ 平凡偉大・無為にして万人を感化すといわれたが、学生の留任運動が起こるなか大正14年辞任、3年後の昭和3年65歳の 生涯を閉じた。

コラム

・ 豊前中津藩士水島均の長男。幼時に両親が離婚、父が急病死、一家離散となり、 姫路の富永家に引き取られ、姫路中学を卒業するが、丸出しの中津弁を笑われ他国者の辛さを味わっていた。父の実兄富永石州が 「これからは商業の時代だ」といって開校間もない神戸商業講習所に入学をすすめる。同校は同郷の福沢諭吉が関係し、支配人 (校長)も中津出身者の甲斐織衛なので、受験を決め、校門を潜ったのは14年3月だった。
・ 所内の光景は、すこぶる奇観・30歳に手の届く生徒もいれば15・6の少年もいる。慶応出のハイカラ洋学生に西南戦争 生き残りの猛者も居る。これらが一緒に着流し、角帯・前垂れ姿で授業を受けるので、言語・動作がバラバラで周囲の施設と そぐわはないこと甚だしい。教育内容も『呉服屋の丁稚にヒマラヤの高きを教えるが如き迂遠事は暫く擱き・・・・・』という わけで徹底した実践主義、タタミ敷きの教場に細長い机を並べ、帳場格子をしつらえ純然たる日本の商店に仕立ててあった。
・ 校舎と棟続きの長屋が寄宿舎で生徒と教師が同居、毎夜政治論議をはなやかにたたかわせた。

 


当時の銀行・外為実践教室

卒業生一覧