* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

小松  清

マルローの友・仏文学者

37回生
大正8年卒


・ 語学に冴えを見せ、県商時代、隻腕の英語教師・西村三郎の指導でずばぬけた才能を 発揮、校内で恒例の英語劇場に主役を演じる。
・ 神戸高商に進学後校内文芸誌に小説を発表し始める。
・ 丁度「死線を越えて」の香川豊彦が神戸を舞台に社会主義運動の輪を広げつつある頃で、急進思想に傾倒していく。
・ 資本主義の商業教育に嫌気がさし、一年半で高商を退学、社会主義運動の道を歩き始める。
・ 大正9年に上京、県商の同級生河合熊一の下宿に転がり込み、浅沼稲次郎らの「建設者同盟」のメンバーとして東京・神戸などで 街頭演説を繰り広げた。
・ 翌年、活動の場を海外に求めて渡仏・モク拾いまでしていた画家の東郷青児らと辛酸をなめて留学生生活を送るうち、 多くの活動家・芸術家と交友を深め、生涯の友マルローと知り合う。
・ マルローの信頼を得て、彼の主催する雑誌の東洋の特派員として日本に軍国主義の足音が高まりつつある昭和6年に帰国し、 舟橋聖一らと「行動主義文学運動」を展開、文化的抵抗を試みた。行動する作家のはしりである。
・ 同時にマルローの大作を次々と翻訳、フランス文学の移入者として第一線に立った。
・ 大戦中の昭和18年、ベトナムに渡り、開放運動の先頭に立つホーチミンと劇的な再会をし、独立を目指す血みどろの戦いをペンで 追い、フランスとの和平交渉の舞台裏の工作に乗りだす。
・ 21年に帰国して「ベトナムの血」などの小説を発表・開放運動に支援を送り続けた。
・ 彼の先見性が大きな注目を集めるようになるのは、30年代、開放闘争が激化し、ドロ沼化し始めてからである。「民族運動は 必ず成功する。南北が統一されるまで闘う。」といい続けたが芦屋市の義姉宅で執筆中、志半ばで急逝した。

コラム

・ 小松が卒業した大正8年、県商は初めて予科2年制を採用、本科4年と合わせて 計6年制とした。それまでは本科のみで、高等小学校卒業者、または中学2年終了、他の商業学校卒業者以上を対象に入試に英語を 課していたが、余りにも入学基準が難し過ぎ、一部で受験競争をあおる結果となったので、改革したが、この制度は、昭和9年の 5年制導入まで続いた。
・ 社会主義に根ざした芸術活動をーという夢を持って渡って着いたばかりのパリ。凱旋門近くで開かれた平和集会で、見知らぬ 青年から突然肩をたたかれた。見ると同じ東洋人、革命家として既に存在を知られていたホーチミンは様々な変名を使い、パリの街に 潜行していたが、それとも知らぬ小松は暫く交友を続けていたが、まもなく、この同胞は小松の前から姿を消す。20数年後、 開放さなかのベトナムでホーチミンの雄姿をまのあたりにして、あの゛東洋人゛が民族の英雄だったことを知る。
・ ホーチミンとの出会い以後、日本人として、最も早く、ベトナム開放を念じ続けた行動派作家の願いが叶えられたのは、その死後、 サイゴンが陥落した昭和45年4月のことであった。
・ 県商の高専昇格運動が起こるのは、大正11年夏である。神戸高商(神戸大)が大学に昇格したが、予科、専門部がなく、 県内から商大に入学を目指す場合、他府県の高等専門学校を卒業しなければならなくなった。このため、三井物産重役だった 楢崎寿衛(12回)船舶公団総裁をした谷口茂雄(16回)ら卒業生が中心になって昇格運動を起こした。然し、関東大震災などで 運動が中断しているうち、県は県立神戸高商(県立兵庫大学)を新設、県商の昇格運動は実現せずに終わった。

卒業生一覧