* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

福沢 諭吉と森岡 昌純

慶応義塾創始者県商創設時の兵庫県知事



・ 明治10年代前半までの福沢諭吉・慶応義塾の影響は、全国にわたりかなり大きなものが あった。兵庫県の場合、特に縁が深く、明治11年から14年までの兵庫教育界に関して決定的ともいえる影響があったの である。
・ 明治9年9月兵庫県令として着任した森岡昌純は、西南戦争で官軍の輸送基地となった神戸が降って沸いた戦時景気に見違えるほど の活況を呈しているのを目の当たりにし神戸の優れた輸送能力を知る。反面、地元商人の力はまだ劣弱で外国商館とのトラブルも絶え ないことも知る。
・ 商権を日本人の手に戻し将来の対外貿易港都とするには、人材育成機関が要ると考えて側近(おそらく牛場)を福沢諭吉のもとに 派遣して依頼、福沢は教師の人選・派遣を引き受け、学校経費は兵庫県が支出することで話がまとまり、牛場は、福沢の推薦によって 義塾出身で商学に詳しい甲斐織衛を校長に、また飯田平作を教師に充てるため、2人を連れて帰県。翌11年には簿記の教師として 義塾から藤井清が派遣され、神戸商業講習所(県商の前身)が開学する。東京商法講習所(東京高商に昇格し、現一橋大)に次いで 全国で2番目の商業教育機関だった。
・ こうして、商権・広くは国権回復の前哨基地としての意気込みのもとに神戸商業講習所が設置された。
・ 入学資格は14歳以上、修業年限2年、定員50名・開校時の生徒は19名だった。

諭吉の人生観

・ 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。
・ 等しく8文の銭を払うて湯屋にはいり、身辺一物なくて丸裸になるに、なにゆえ士族は旦那とよばれていばり、平民はきさまと 軽蔑されてきょうしゅくするか。
・ 錦を故郷に着て人をおどろかすというような野心はないのみか、私にはその錦がかえって恥ずかしくて着られない。
・ 思想の深遠なるは哲学者のごとく、心術の高尚正直なるは元禄武士のごとくにして、これに加うるに小俗吏の才能をもってし、 これに加うるに土百姓の身体をもってして、はじめて実業社会の大人たるべし。

学問とはなにか

・ 学問は人生の目的にあらず、学問を学びて大学者になりたりとて、その学問を人事に 活用して、自身自家の生計を豊かにし、またしたがって自然に国を富ますの基となるにあらざれば、学問も一種の遊芸にして、人事 いそがしき世の中には、まずもって無益のさたなりというべし。
・ 学者の議論は現在その時に当りては効用少なく、多くは後日の利害に関するものなり。(中略)
・ 疑わざれば求めず、求めざれば得ず。
・ 信の世界に偽詐多く疑いの世界に真理多し。
・ 得教は目より要りて耳より入らず。

金銭感覚

・ 銭は万人の欲するところにして、これをえること甚だ難し、ただ難しきが故にこれを得んとして熱心勉強す。 ・ 道理のさき〔堺)を逸して財をむさぼるを吝となずけ、一身一家の生計を密にして、外面辺幅をからざるを倹という。 ・ 大いに富むもの必ずしも永きに非ず、少こしく富むものその割合の短きに非ず。貧富は時のめぐり合わせにして、財産はただ有る時にあるのみ。

卒業生一覧