* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

小寺 謙吉

第2次大戦後の復興期,神戸を支えた国際人市長

13回生
(明治27年卒)


・ 現在の相楽園(神戸市中央区)で産声をあげる。
・ 県商卒業後、渡米準備のため、杉浦重剛の門に入り、20歳で米国コロンビア大に入学
・ 父重病の報で帰国すると「学業半ばで帰るとは何事か」と病床から声が飛んで、そのまま引き返した。
・ 40年に帰国、学者になりたかったが、東郷平八郎の媒酌で結婚、学究生活に踏み出した途端に周囲からまつりあげられ、 31歳の衆議院議員が誕生する。
・ 立憲君主党に籍を置いたが、犬飼毅と対立。桂太郎が結成した新党に走ったため、節を売ったというわけで暴徒がなだれを うって小寺邸を襲い、乱暴の限りを尽くされるが本人は平然と読書を続けたばかりか、後日、検挙された暴徒に差し入れまでやって のけた。この男は、感激して生涯、小寺の身辺警護をした話が残っている。
・ 三田学園を創設する一方、政界でも活躍、神戸港拡張・国鉄高架問題で加藤高明とかけあい、余りの強引さに部屋を追い出された ことさえあった。
・ 直情径行・信念居士、それゆえ誤解も多く、昭和5年に落選して以来、長い雌伏の時代を迎える。
・ 再び政界に戻るのが終戦直後22年に行われた初の公選神戸市長選で最後のご奉公として立ち上がった。もっとも、運動期間中に 選挙カーの中で読書をはじめ、運動員が「候補者がそれでは士気が落ちる」とこぼしたという。
・ 第15代神戸市長に就任し、占領軍と対等の交渉をはじめる。頭ごなしの命令には得意の英語と国際法で抵抗。それでも聞かなけ れば財政難を持ち出す。けげんな顔をする軍関係者に「あなたがたが帰れば財政も楽になる。」とあびせかけた。
・ 神戸の自由貿易港実現を目指して上京、政府との交渉中、突如倒れ,最後まで「湊を・・・・」のうわ言を繰り返しなながら帰らぬ 人となった。

コラム

・ 日露が戦端を開くや、神戸はあるうわさでもちきりになった。 「金持ちのボンボンはええ、徴兵を逃れて海の向こうで遊んでおられる。」指されたのは小寺謙吉。アメリカ・ドイツを経て、 明治37年のこの頃ウイーン、ジュネーブ大で国際法を勉強中だった。
・ 豪邸に住む富裕の家の令息が10数年に亘って洋行、遊学、それだけでもやつかま れるところへ国運をかけた大戦争に 一人前の男が出征しない。市民感情としても納得できないというわけ。
・ 町の声を耳にした父泰次郎は狂わんばかりに怒った。元は三田藩士の甲骨漢。すぐさま長男に電報を打つ。急ぎ帰国した 小寺は陸軍中尉で満州の奥地に従軍。無事、凱旋するのだが、この父にしてこの子あり、武勇を尋ねる人に答えて「なあに ちょいと洋食を食ってきた。」と答えた。
・ 本をよく読み、暇さえあれば本屋を歩き、食卓や枕もとには常に4・5冊が重ねてあった。
・ 移転のとき、洋書だけでトラック8台を要したほどだが、この蔵書は早大などに寄付され、小寺文庫として引き継がれている。
・ 昭和13年の阪神風水害のとき自費で災害写真を撮り、内務省にばらまき、復興の必要性を説いた。この努力に神戸市は 小寺邸を買収「相楽園」と名づけて永久保存することとした。  


現在の相楽園


旧小寺邸の馬小屋

現在の神戸市役所
卒業生一覧