* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

岡本 米蔵

ニューヨーク土地建物社長・日本のカーネギー

18回生
明33年卒


・ ある日校長の姿がない、聞けば、幼い愛娘を亡くし、今日が葬式の日である。 下校するとそのまま4里半の道のり(子供の足では片道5時間はかかる)を一人で歩いて校長の家まで訪ねていって、校長をびっくり させ、校長が「なぜ」と聞くと「先生のお嬢様のお葬式に」とポツリ答えた。まだ若い河合亀太郎校長は思わず涙をこぼし「私は4歳の 女児を喪ったが10歳の男児が生まれた」と感激した。
・ 米蔵の夢は教育者になることだったが、子沢山の谷家の長男(男6人、女2人の8人兄弟)として、夢は容易く叶わない。そんな 矢先神戸市内に住む叔父の岡本市蔵が子がなかったので米蔵を養子に欲しいと望んできた。
・ 問題は当時谷家が背負っていた480円という多額の借金で、米蔵は借金返済の義務があった。市蔵は「米蔵は商業学校へ 行かせる。卒業して働きながら、負債を少しづつ返済したらどうか、その代わり岡本の家は必ず相続してほしい。」と提案した。
・ 米蔵は「岡本」姓となり、神戸に旅立ち海を見て船を見て都会を見て驚く。
・ 明治9年、志願者300人、採用者80人の神戸商業学校を受験2番の成績で合格。
・ 夏休みになると神戸の栗棟廻漕店へ丁稚奉公に出される。養父は、稼ぐのであれれば若いうちに商売の実際を学んだほうが良いと いう考え方から退学届を提出していたが、これを知った米蔵は断固抗議し「学校は行かせてください但し今後一切学費は頂きません 自分で稼いで得ることにいたします。」と独立宣言をした。
・ 養父も、それならばいいやってみろとつっぱね、米蔵は勉学の合間を縫って、「修学行商」(現在のアルバイト学生)をして 1円、2円と行商に励むようになる。
・ 東京に出た米蔵は品子を呼び寄せ、この若妻を津田梅子のもとでエリート教育を施す。
・ 日本で資金を募り、ニューヨークで土地開発事業をして、一時大変な成功をおさめて「日本のカーネギー」と呼ばれたことも あったが、太平洋戦争の影響もあり、資金繰りも苦しくなり、晩年は不遇であったという。

コラム

・ 明治30(1897)年夏休みから、山陽から九州にかけて回り翌年もまた 東海道から東京・東北・北海道へと行商の旅に出て、2年にわたる旅で毎日克明な日記をつけ大手出版社から出版した。この本の 推薦は、樺山資紀(文部大臣秘書官などを勤めた)、尾崎行雄(文部大臣)、渋沢栄一(第一国立銀行頭取)などが題辞をよせ、 母校・神戸商業の校長であり川崎造船所の副社長でもある川崎芳太郎が序文を書いている。
・ 出版のいきさつは、樺山資紀がたまたま神戸商業学校を視察旅行の途中で訪れ、模範学生として米蔵を紹介された際、行商日記を 見て、一読その内容に感心し「このままにしておくのはもったいない是非出版して天下に公にするとよい。」と鶴の一声があった。 当時で9000部売れたという。
・ 神戸商業学校最後の年に17歳の岡村品子と結婚。但し、これは形だけのものらしく米蔵は川崎芳太郎によって設けられた 奨学金制度適用の第1号として東京の高等商業学校(現・一橋大)に入学することが決まっていたからである。

 


校庭の百年譜

卒業生一覧