* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

大山 郁夫

鳴らし続けた「平和の鐘」・輝ける委員長

19回生
明治34年卒


・ 銀行員の養父は商科を望んでいたが、東京専門学校(現早稲田大)政治科を選び、 主席で卒業し講師として残る。
・ 5年間の留学の後大正年に早大教授に迎えられた。折から起こる大正デモクラシーの波。心の中に燃え続けていたヒューマニズムの 思想が大きく開き、気鋭の理論家として飛躍する。
・ 一時大学を去り大阪朝日新聞に入社するが、筆禍事件にからみ再び早大へ帰る。
・ 長谷川如是閑らと雑誌を発行、政治評論を展開するうちに社会主義運動に足を踏み入れ学生の偶像的存在となる。
・ 京大の河上肇とともに東西の双壁とされたが同時に苦難の後半生が始まる。
・ 関東大震災の際、突如憲兵に連行され獄中へ・暗殺の噂が流れる。
・ 門下生の機転で保釈となるが、これがひとつのきっかけとなり、大正15年結成の労農党の委員長に迎えられまたも早大を辞職
・ 第一回普選に香川から立候補・大弾圧下で善戦したが惜敗
・ 労農党に解散命令がでるが、新労農党を樹立し東京5区で衆院当選を果たす。
・ 勃発する軍国化の中で昭和7年妻・竜とともに渡米(事実上の政治亡命)
・ 米軍から日本への降伏勧告工作を依頼されたが最後まで拒否する。
・ 亡命地で終戦の報、帰国して平和建設に力を注ぎたかった。そこへ、早大で帰国運動がおこり、教授復帰の要請決議が届き、 横浜に着いた大山は、学生の歓迎行進のなかで3度目の早大教壇に立った。
・ 戦後は、党派を超えた平和運動の先頭に立ち、参議院議員になる一方、平和を守る会会長・平和擁護日本委員会会長・世界平和 会議理事を務め、朝鮮戦争での米軍の細菌戦に抗議した。
・ 26年10月日本人として始めて国際スターリン平和賞受賞
・ 所詮は学究の人だったとの批判もあったが、その死はわが国初めての平和葬をもって送られ、国内外からの弔電が届き焼香の煙が 絶えなかった。

コラム

・ 旧姓・福本、’80に若狭野村(現在の相生市若狭野)に生まれ、生家は代々医師 だったが、次男の郁夫は高等小学校を終えると神戸の大山家へ養子に入る。
・ 養父から後継者として県商入学をすすめられ、立場上断れない。顔にこそ出さなかったが、内心しぶしぶ2年に編入、抜群の 成績を残すのだがどうしても商業科目だけはいけない。元大阪商船社長岡田永太郎の後塵を拝し続け、席次は2番に終始した。 余程商業が嫌いだったらしい。
・ 東京専門学校(現早稲田大)を受験する際も養父には商科を受けるといいながら英語・政治学科一本にしぼっていて、 合格報告で『商科は不合格でした。』と一生一度のウソをついた。
・ 学費が乏しく、東京生活は苦しく、服装の汚いことは学内に知れ渡った。だが、今度こそ水を得た魚、正真正銘の主席で卒業、 講師として残り、5年間の留学の後、早大教授に迎えられた。

 


楠町時代校舎

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