* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

野坂 参三

ソフトな闘士・日本共産党中央委員会議長

30回生
明治45年


・ 山口県荻市生まれで両親を相次いで失い、荻中学を1年で退学、神戸の材木商に 養子入りしていた長兄のもとに引き取られた。長兄は、商人に育てる積りで県商進学を薦め、一年間育英義塾(育英高校の前身)に 通い、明治41年に県商の校門をくぐった。
・ 当時の神戸は人口40万を超え、新会社の設立が相次ぎ、貿易港として日日膨張の一途にあった。
・ ビル群が林立する一方、密集する貧しい住宅街、大きな落差を見るにつけ「商人になる」という進路に疑問をもった。
・ アメリカの経済学者イリーの「経済学要論」を手にして、初めて社会主義の一端に触れ、おぼろげながら途を見出しかけたおり、 大逆事件が報じられ、提出したのが国語の自由課題作文「社会主義ヲ論ズ」で「現代社会ノ改良法、此ノ社会主義ヲ措イテ他ニ何オカ 求メム」と社会主義を謳歌する文章を綴った。
・ ただでは済みそうにない。ところが予想に反してその場で注意だけで終わった。作文は、思ったとおり最低点の「丙」の評価で 返されたが、これが政治活動のスタートラインとなる。

コラム

・ 卒後、社会政策講座のある慶応に進学・在学中に友愛会(日本労働総同盟の前身)に 加わり、卒業すると兄を説得して有給書記となった。政治活動の舞台は東京だが、常にその楽屋裏となったのが、神戸である。
・ 渡英してイギリス共産党に入党・国際活動を始めた途端に追放。パリに逃げ、県商の同級生の岡田繁の兄殻(画家)のアパートに 転がりこむ。(殻の遺児がE・H・エリック、岡田真澄兄弟と知ったのは後年である。)
・ 大正11年帰国、日本共産党創立に参加、共産党弾圧下で2度目の投獄、眼病手術を理由に保釈され、療養の名目で神戸に帰る。 ソフトな人柄の故か、余程の強運なのか当時としては異例のことで「刑務所医が左遷されてまで保釈の必要性を主張した結果」だと 本人は言う。
・ 2ヶ月毎に妻・竜が上京、保釈申請し不思議にその都度新しい病気で許可がおりた。その間、綿密な日本脱出計画が神戸で組み 立てられ、歴史的なモスクワ亡命、野坂と妻・竜は家族にさえ生死が分からぬままに忽然と消えた。
・ その姿が再び現れるのは、中国の延安日本人捕虜を中心に日本人反戦同盟を組織、さらに太平洋戦争の真っ只中で「民主日本の 建設」という戦後日本のプログラムを発表した。
・ 冬の時代を潜り抜けて、民主主義のシンボルとして東京・日比谷公園を埋めた5万人が歓迎する中、日本の土を踏み、平和革命論を 説いて 衆院初当選を果たす。(昭和21年)
・ それも束の間、公職追放で再び、神戸から姿を消し、5年間、地下活動に入る。
・ 30年・6全協会場に突如登場し党内統一に力を注ぎ、第一書記に抜擢される。
・ 参院に当選し、昭和33年議長に就任、委員長宮本顕治と共に、自主独立路線の日本共産党を築きW前衛党”の牽引車となった。
・ 一部で引退をささやかれながら、議長に留まり、長い戦いの歴史を自伝にまとめつつ、若返った党を引っ張っていった。

 


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