* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

川西  英

版画で描いた「郷土の百景」・近代版画家の第一人者

33回生
大正3年卒


・ 神戸・兵庫に代々続いた回船問屋「淡路屋」5代目善衛門の7男、末子として 生まれる。本名は英雄
・ 画才は幼稚園時代から群を抜き、絵で身を立てたいと考え、美術学校進学を前提に、神戸2中に入学
  ・ 父の急死で長兄が6代目を継いだが、子供がないので、兄の養子となった。いずれ、7代目を襲名する身、そこで県商へ転入、 思わぬことから将来計画が狂った。学校を出れば家業が待っている。絵もあきらめざるを得ない。悩み抜き、神経衰弱になって、 1年間休学の後ようやく落ち着きを取り戻し、復学。
・ 俳句を作っていた山根輝男(30回)らと校内の文芸グループ「若竹会」を結成、趣味のつもりで油絵・水彩画を描き出した。
・ 卒業まであと1ヶ月、絵筆と分かれるつもりで描き溜めた50点を集めて展覧会を開いた。
・ 会場は楠公前のカフエー「ブラジル」これが神戸における個展の始まりで、新聞が大々的に書き立て、話題が話題を呼び、絵描き 連中が押しかけ、引くに引かれぬ状態となり、結局、絵の途を歩みだす。
・ その頃、山本鼎の版画に出合う。引き込まれて版画に転向。終生、師を持たなかったが、独特の技法で、新しい分野に「サーカス」 という素材を得て、出来上がったのが「曲馬」、昭和2年第7回国画会に初出品入選を果たした。曲馬は鮮烈な印象を与え、絵葉書と なって一般に知れ渡る。一方「曲芸帖」「南蛮曲」などを次々に出版、サーカスの川西と謳われ版画界のリーダーとなる。
・ 兄の死後7代目を襲ぐ。この時点で商運も傾き、兵庫東出郵便局長となる。
・ かたわら、創作は続き、7年のオリンピック芸術展(ロサンゼルス)で入選、9年にはルーブル博物館が作品を買い上げるなど、 海外でもその名が定着していった。
・ だが、神戸を動かず、神戸を描くことに情熱を注いだ。昭和8年から4年がかりで『神戸百景』を仕上げ、さらに戦後 『新神戸百景』を完成した。この百景に刺激されて数人の画家が挑戦したが、すべて3〜40景で挫折した。
・ 39年またも『兵庫百景』を描いた。郷土への執着、絵の執念というべきか。
・ これらの作品は「自選集」で残るほか、レストランのメニューから、包装紙のデザインに使われるなど、幅広いフアン層に浸透 していった。
・ 腸不通症に肺炎を併発、死の床でも「描かせて欲しい。」と医者にせがんだが、昭和42年2月、70歳の生涯を閉じた。

 


川西 英 版画 (母校)

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