* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

柳田 義一

数少ない「鈴木倒産」のドラマの経験者

36回生
大正7年


・ 商売に失敗した父が鈴木商店に身をよせ、常務として小さな店を三井と比肩するまで 育てあげる。
・ こんな環境から、一旦神戸1中に入学したものの早く実業につきたいと考え、2年で退学。県商に再入学。卒業後は実父が役員の うえ、校長の推薦までついて予定通り、すんなり鈴木商店に入る。同期生は20人ほど居たが、県商からは小川謙と松下菊蔵が入った。 その頃、鈴木商店は頂点にあり、重要輸出入商品を扱い国内はもちろん、台北、京城、マニラまで支店網を広げ、直・傍系会社は60 もあり、店内は活気に満ちていた。
・ 他の中学校からの入社組みは講習を課せられたが県商卒業生はすぐに配属された。毎日、布引寮から東川ア町の店まで徒歩通勤、 ラシャ地の黒国民服姿。お仕着せのスタイルで、鈴木の社員とわかった。
・ 初任給40円、但し、社長ヨネの意向で大半は強制貯金に回したから手取りは8円、鈴木の8円坊主と世間は呼んだ。家族主義の 店内では、社員が食堂のテーブルに並んで食事をする。7〜800人が食べるから1日2石づつ米が消えた。
・ 入社4ヶ月のとき、恩師の岡田禎三校長から恒例の海外研修の引率役を引き受けて欲しいと頼まれ、8月はじめ神戸を旅立ったが、 直前に「鈴木が米の買占めをしている。」という噂が市中に流れたが、まさか大事には至るまいと不安を打消し津つ出発する。
・ 台湾・基隆(キールン)に着いたとき「鈴木焼討ち」の報が入る。帰国した柳田を待ってのは、数年後の大商社崩壊に至る激動の ドラマだった。
・ デマによる8月12日の襲撃から8日後に帰神、米価高騰の張本人は金子(専務)だと市民は首に懸賞金まで付けたのでその護衛を 務めながら神戸の大工を動員、復旧を急いだが、この後鈴木は経営的に行きづまる。
・ 大正11年に大阪支店に転勤するが、世界的な金融恐慌のなかで台湾銀行から取引停止を受けた鈴木は倒産
・ 青春をかけた鈴木に別れ、神戸製鋼に移り、戦後、太陽鉱工に移る。

コラム

・ 県商の海外研修は明治33年から昭和11年まで続いた。最上級生から成績優秀者を 選び、県補助金で海外貿易施設を見学させるのが目的で、初年は、北清事変で北海道旅行になったが、翌34年からは満州・朝鮮・ フィリピンなど海外へ出かけ、日中戦争で中止になるまで継続した。

 


楠町時代の校舎

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