・ 牧師だった父が旧約聖書から名付けた。
・ 大正6年、一旦願書を出した神戸2中を棄権、明石の小学校から県商に入学した。
・ 経済的に苦しく、進学をあきらめていたが、母の後押しで、神戸高商へ、アルバイトなどの苦学で京都大学経済学部にすすんだ。
当時の京大は、河上肇、西田幾太郎ら、錚々たるメンバーがキラ星の如く揃い、学部をまたにかけた講義を聴きあさった。
・ 学者の途を志ざしたところへ、和歌山高商(現和歌山大)から講師の誘いがあり、スパルタ教育を目指す岡本学長のめがねに
かない、面接の場で採用が決まった。丸坊主に足袋をはかず、木綿の着物と粗末なハカマという身なり・風貌が決め手となったのだが、
実は貧乏のあまりの姿だった。何が幸いするかわからない。
・ 専門の経営学もひょんなことから手を染めた。経済学の講義をしていたが、教授の席は詰っている。日本に導入されたばかりの
経営なら空席がある「ひとつやってみんか」とすすめられて、転向した。おりしも高商から昇格した神戸商大が経営学講座を準備中で、
母校へ帰ることになった。
・ 経営学の草分け的存在として、後に日本経営学会理事長を務め、わが国では最高水準といわれた「経営労務論」「賃金形態論」を
出し、同時に見事なビールの飲みっぷりで学内外にその名を知られる。青年期までは1滴も飲めなかったが、昭和20年から3年間の
ドイツ留学時代、寂しさをまぎらわすために連夜、ビヤホールに通い、浴びるほどに飲んでおぼえたものだった。
・ 少々、破目をはずしても、慕われ、愛されたのも、その邪気のなさからだらう。
・ だからこそ、辞退した神戸大学長に2度も選ばれる。誇大妄想と陰口をたたかれながら、県立医大・農大を吸収、米軍の永久接収と
言われた六甲ハイツを解除に持ち込み、現在の六甲台を中心に総合大学を実現。タコ足を解消した。
・ 学術会議で大学院の財政難が問題となると、即座に「大学院ができたよ学生も増えるよ/修士さんも作ります博士も出すよ/それに
俸給は据え置きで/教授の負担は増すばかり/ハハ/ノンキだね」と、得意のノンキ節、文部省の度肝を抜いた。
・ 教え子の仲人140組という記録を残し、41年退官、関学大を経て、広島商大に迎えられた。
・ 古林亭(こりんてい)喜楽と自ら芸名をつけ、終生、学生に囲まれ続けた芸達者、片や、新興の経営学を純粋学問の水準まで引き上げた。 |