* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

浜崎 真二

小さな大投手・球界彦左衛門

41回生
(大正11年卒)


関係著書
48歳の青春
(球界・彦左 自伝・ベースボールマガジン社)

・ 広島商業1年在学中外野手で鳴尾の全国大会(第3回)に出場、1回戦で関学中学と 対戦しで3:6で敗れる。
・ 同級生の一人が女学生と海水浴に行って無期停学処分となったとき、「浜崎も同行した」と言ったから濡れ衣をきせられ、無実を 訴えたが同罪、父の意見もあって自ら退学した。
・ 関係の同級生から罪滅ぼしのつもりか「県商の野球部が投手難だ、編入したら」と手紙があり、受験、入学。投手として野球部の ユニホームを着る。
・ 大正11年県予選4試合すべてを完封し、第8回全国大会に出場し、2つの学校から2回出場の珍しい記録をつくる。
・ 慶応予科在学中に大阪毎日新聞の「大毎野球団(ノンプロム・チーム)」の満鮮遠征に参加し、また、早慶戦等で活躍し、6代目 菊五郎に可愛がられる。
・ 慶応最後の昭和3年に野球部が渡米
・ 満鉄に入社、都市対抗に優勝(昭和4年)
・ 福山の34連隊に幹部候補生として入隊中に、連隊長の命令で地元の笠岡商業などのコーチもした。(入隊中にコーチに出かけたの は、多分、他に例はない。)
・ 昭和6年に除隊後、昭和16年に満鉄に復帰、16年に全満鉄チームの監督になるが所属の満鉄倶楽部単独で出場し、東京の藤倉 電線、九州の八幡、神戸川崎の4チームを破って優勝。41歳で、投手・プレイイングマネージャーでで2日間連投した。
・ 昭和20年に南新京駅近くの運動場作成を担当、日本人・現地人一体の社内スポーツ旬間を開催
・ 終戦後、引揚、昭和22年に阪急(現ブルー・ウエイブ)総監督、23年に監督、28年にリーグ2位となる。
・ 補強の方針で、上層部と意見が合わず、翌年退団
・ 新設の高橋球団の監督となるが、成績が良くならないので休養を申し出る。
・ 34年秋に当時の水原監督に頼まれて巨人コーチとなるが、水原の退団で一年だけの 巨人のコーチだった。
・ 36年、サンケイの評論家時代に水野社長の頼みでスワローズの監督となる。
・ 1978野球殿堂入り

コラム

・ 154p・52sの小兵が西灘村(現灘区)、の県商グランドに前触れもなく現れ、 捕手を目がけて左腕から快速球を投げ込み、身を打席に移し打者となると今度は打球を軽々と場外へ運ぶ。ナインは目を見張ったが、 会釈一つせず引き上げた。大正8年春、浜崎が入学試験を受けに来た際のデモンストレーションだった。
・ 当時、全国(100余)の商業学校は、予科2年・本科4年制だが、県商など数校だけは、高小卒以上を対象にした本科のみの 4年制。入学資格はあるし、ここなら3年遅れですむ。浜崎にとって、渡りに船と受験した。
・ 入学した浜崎は、全身、これバネ・たゆまぬ手首を鍛える努力・強心臓・そのうえ大男に反発する負けじ魂。たたまち「県商に 浜崎あり。」とその名が知れ渡った。
・ 監督時代、相手が看板投手だろうが、球団役員だろうが気に食わなければ容赦なく突っかかる。解説者に転じても、ズバリ指摘の 連続。付いた異名が「球界彦左」

 


往年の野球部

卒業生一覧