* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

斉藤 登

復活「県商」の校歌を作曲

44回生


校庭の校訓碑

・ 父正之は、兵庫区から出て県議、神戸市会議長を務めた。
・ 県商に入った頃から音楽に興味を持ち始め、ピアノを習っていた姉の影響で鍵盤をたたくと途端に父の怒声がとんだ。 「男が河原乞食のまねをするな」登を政界に入れようと考えていたらしく、音楽学校進学を申し出たら頭ごなしに不許可。 半ば強制的に大阪外語学校(大阪外大)を受験させられたが、「首尾よく」不合格。肺センカタルを発病していたためで、 ようやく、父もあきらめ、療養をかねて好きな「好きなことをやれ」と言ってくれた。
・ 昭和3年国立音楽学校(国立音大)作曲科へ、中退後、宝塚音楽学校を経て放送局の指揮棒をにぎった。
・ 終戦直後の昭和21年初め、NHK大阪放送管弦楽団の指揮者だったとき、当時の神戸市長中井一夫の「市民の心にうるおいを あたえたい」という申し出に応じて神戸湊川公園でコンサートを開く。オーケストラ60人の出演料が米軍放出のカンヅメだったのも 時代を感じさせる。
・ 湊川公園でのコンサートをきっかけに、新設された市文化課の顧問になった。詩人の竹中郁、画家の小磯良平らとともに文化の 復興運動にのりだす。小学校の教室を借りて週3回開いた「市民合唱教室もその試みのひとつで復興局のキモ入りで「神戸復興音頭」を 作曲、焼け跡を回ったこともある。市民音楽コンクールの開催、音楽ホール建設運動など、音楽を通して戦災からの立ち直りを図ろうと し、その基礎固めをしてから、27年、仕事の都合で東京に移った。
・ 県商は20年9月、占領軍の政策でやむなく神戸4中と合併、星陵高校商業科として戦後の道を歩んできたが、37年に神戸商業 学校が新設され「県商」の名が復活することになり「新しい校歌作曲の依頼が届き、続いて富田砕花の詩が届く。故郷を離れて10年 ぶりである。「海は光りてにい立ち ここいわ走る歌まくら 丘を舞子の細道を 結ぶ宇宙の大路線 あすの世界の歌のせて ふな よそおいにいししむ子ら 県神戸商業高校」
・ 新校歌は、創立100周年記念式典で大合唱された。

コラム

・ 斉藤の後に神戸で音楽文化創造に力を尽くしたのが同窓の小寺巌(41)神戸商工 会議所専務理事で国際会館建設に参加、そのまま初代館長に就任。財界から文化界へ鮮やかに転身し、音楽普及に全力をあげ、 館長を辞してからは県音楽協会会長として、活動を続けた。

 


原田校舎正門

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