* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

住田 幸一郎

海外に根を張る開拓精神

46回生
昭和元年卒


校庭の石碑

・ 09年にハワイオアフ島で生まれる。常夏の島で酒造業を興し、経財的に安定した 父は息子たちの教育のために事業を実弟に任せて帰国。神戸の御影に居を構え、長男幸一郎が小学校を終えると迷わず県商へ進ませ、 次男誠二郎、3男慎三郎も兄の後を追う。
・ 幸一郎は神戸高商を受験するが、複雑な日本語による入試に失敗。アメリカ・オハイオ州のデイトン大学に入り、昭和6年に 日本に戻った。
・ 開拓者の血を引継いた彼は、台湾でコーヒー園を開き、かたわら物産会社を興して内地へコーヒーを持ち込む。然し、太平洋を はさみ、日米間の雲行きがあやしくなるにつれて身辺に憲兵の目が光りだす。アメリカの市民権を持つため、スパイ容疑まで 着せられる。つけ回され、いやがらせも受け始めた。
・ 一方、誠二郎は広島市役所に就職、慎三郎は長兄と同じ大学へ入学、卒業後ハワイに帰り父の後継者を目指す。ところが当時の 日系人社会では、民族意識からかアメリカの大学を出ても軽く見られる傾向があった。そのせいもあったのだろう再び日本の土を踏み、 東京商大(一橋大)の聴講生となった。
・ 慎三郎は東京商大に籍を置いたため、日本で現地召集を受けた。日本陸軍の少尉として、中国戦線へ、片や幸一郎は神戸で 敵国民さながらの扱いを受け、戦火拡大とともに、事業も行き詰まっていく。終戦と同時に、高独活は米軍少尉として呼び出され、 大阪の進駐軍に勤務を命じられた。
・ ハワイの酒造会社は敵国産業として封鎖されたまま。台湾のコーヒー園も米軍に接収された。
・ まさに八方ふさがり、だが、この開拓者2世はくじけなかった、まず、慎三郎がハワイに渡り、米軍と交渉を始めるが進展しない。 これを聞いた幸一郎は兵役解除と同時に弟の支援にハワイへ、今度は米軍の少尉の経歴を全面に出し、掛合って、ついに、父の創業した 会社を取り戻した。
・ 幸一郎は昭和33年に、慎三郎もホノルル商業会儀所会頭として、日系米人の地位を高め、ハワイの土となった。
・ 海の向こうで、大きな足跡を残したパイオニア達、開拓者精神に富んだたくましい男達である。

コラム

・ 当時、日系人達は内地から清酒を輸入していたが、関税ガ高くろくに飲めない。
・ 幸一郎の父は、広島県出身で、オアフ島でカリフォルニア米を利用、冷房装置を開発し、常夏の島で酒造業を興し、ハワイ産の 清酒「山の娘」「宝正宗」は日系人に祖国を感じさせ爆発的に売れた。
・ 経済的に安定した父は、幸一郎が小学校4年のとき旺盛な開拓精神を植え付けるとともに、日本の商業教育を受けさせるために、 事業を実弟に任せて帰国。神戸の御影に居を構え、小学校を終えると迷わず県商へ進ませた。次男征二郎、3男慎三郎も兄の後を追って 入学する。
・ 戦争で人生を揺さぶられた県商生は少なくない。南米への雑貨輸出の草分けだった滝波文平商店の後継者滝波文雄(40)も その一人で慶応を経て昭和4年、ブエノスアイレス支店を任され、赴任するが、戦争勃発で店ごと没収される。したたかにに生き抜き、 戦後は著述活動を続ける。
・ 上野正二(51)はウルガイのモンテビデオ支店にいたが、ブラジルサンパウロ支店開設の命を受け、飛んだ途端に、ブラジルと 祖国が交戦状態に入って、支店は閉鎖。戦時中は、敵国民として冷淡な扱いを受けたが、耐えて、戦後サンパウロで模型飛行機の製造、 販売会社を作り、みごと再起した。
・ この他に、商社経営に成功した井上勝治(50)、サンパウロで保険代理店を営んだ、村山圭介(58)がおり、南米での県商生の 活躍はめざましい。

卒業生一覧