・ 県商に入学した昭和4年は、受験戦争緩和のため、内申書と口頭試問だけで選抜が
行なわれ、六甲小学校から入学した。
・ 2年のとき、山岳部に誘われ、以後、山の虜になっていく、卒業後もOBでつくる「嶺」に参加、これが母体となって神戸山岳会へ
と発展する。
・ 戦時中でさえ山に登った。太平洋戦争で「マニラ」陥落を聞いたのも後立山の山小屋だった、警官に「非常時局を知らんのか」と
怒鳴られながら、なお、沢から尾根を歩いた。パートナーが岸壁に宙づりになるなどの危険に出会ったが、その都度、冷静な判断で
死地を脱してきた。
・ 軍需工場に動員され、戦後は質屋を経営するかたわら、山に登り続けてきた。
・ その豊富な経験を買われ、兵庫隊山岳連盟のマナスル登山隊の隊長として派遣される。
・ 20日間のキャラバンを経て、4400m地点にキャンプを張った。第4キャンプまでは順調に伸びたが、大自然の拒絶は手厳しく、
連日雪崩を起こし、進路を閉ざす。縦横に走るクレバス、間断ない雪崩の恐怖、轟音を発する氷塊の落下に思わず身を縮める。
・ ヒマラヤにモンスーンが近づき、狂う山、キャンプが雪崩に潰され、ザイルを流される。目撃したシェルパが顔色を変えて逃げた。
だが、もうそこに頂上がある。隊員はあきらめずに東稜ルートを捨て、右方稜線にかじりつき、「1cmでも高く」山男の執念で挑み
続けた。
7200mの地点、またも襲う猛吹雪についに中止命令を出す。涙を流して続行を訴える隊員もいたが、悪天候の判断から下山命令を
変えなかった。
・ マナスルで死んだ若い渡部の写真をベースキャンプに近い埋葬地のそばにダンボールの祭壇を作り、立ち木で卒塔婆(そとば)を
建てて不成功を詫びつつ手持ちの米を供えた。そして、両親の写真を埋め、自ら語るようにつぶやいた「渡部さん、退くにも勇気が
いるんですね」
・ 神戸・王子公園の一角にある登山研究所で、春秋に「登山教室」を開き、若い登山家に、マナスルに散った渡部を思い描きながら、
山の魅力と怖さを教え続けた。 |