* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

島尾 敏雄

孤高の作家・重厚に極限の夫婦愛を描く

54回生


・ 父は横浜の輸出絹物商だったが、関東大震災で、取引先のインド商人が大挙、神戸に 移動したため、一家もついてきた形で、大正14年に8歳で神戸に移り住み、父は長男の敏雄に仕事を継がせるため、昭和5年県商に 入れる。山岳部で活動する一方、同期の金森正隆の兄で神戸一中生だった正典に強い影響を受け同人誌「峠」に加わる。両親が福島県 相馬市の出身で”東北人的体質”と自らいう島尾は、神戸弁の微妙さになじめず、内的世界に入り込みいよいよ文学に傾倒していく。
・ 父の薦める県神戸高商(県立大学経営学部)に失敗、長崎高商(長崎大)へ、だが、どうしても商業に将来を託す気が起こらず、 一旦入った九大法文学部をやめ、東洋史学科へ再入学。西域史をやり、中国の図書館にでも勤めようと考えていた矢先、「赤紙」が来て 繰上卒業し、一年間の訓練後、海軍中尉第3期一般兵科予備学生として奄美大島から沖縄に駐した。
・ 特攻兵器「震洋」1人乗りモーターボートの頭部に230キロ炸薬を装備、敵艦船に体当たりするのだが、出撃したら最後、2度と 生還はあり得ない。1個部隊50隻の指揮官として出撃を待ったが、戦争中とは思えない穏やかな日々の中で島の娘大平ミホと出会う。 確実に死が訪れると知りながら、2人は熱いい思いをつのらせていった。
・ その日は20年8月13日に来た。ミホは懐剣を抱き、湾を見下ろせる岩場でエンジン音が響くのを待つ。だが「震洋」はついに 外海へ出ることなく終戦を迎え、復員で第二の故郷神戸へ帰った。
・ 米軍統治下を密航同然で抜け出し、後を追ったミホ。21年9月結婚。阪急六甲の家で2人の新生活が始まるとともに作家の第一歩 を踏み出した。
・ その後神戸外大教授となって教壇に立ちながら大阪にいた庄野潤三らの同人誌に参加、本格的な創作活動に入る。死と肩をあわせる 極限に立って、なお、生き残ったという説明しがたいうしろめたさ。そうした思いが島々での日々を描く作品となった。第1回戦後 文学賞を得た「出孤島記」のほか「出発は終に訪れず」「島の果て」「孤島夢」といった作品である。
・ 27年、作家の足場を東京に作って上京、間もなくミホが神経症発症、労り続けるが心身ともに疲れ果てて妻と一緒に入院する。 経済的にもどん底状態に追い詰められて、夫婦は奄美へ旅立つ。
・ この島で、病妻ものといわれる一連の島尾作品が生まれていく。狂い、もつれる夫婦の絆。それをたじろがずに見つめ続け、体験を 手がかりに描写していった。
・ 図書館勤務中、離島の口碑や伝説採集に打ち込んだ。孤島から日本を観察する独特の視点。これらが作品に厚みをつけて行った。
・ ミホの病も癒え、夫婦は首都圏に戻り、念願だった長男、長女と同居。そして、「日の移ろい」で第13回谷崎潤一郎文学賞を 受賞。その知らせを聞いたのも旅先の沖縄だった。
・ 17年の歳月をかけて完成させた「死の棘」は、戦後の純文学の中でも屈指の大作と評され、孤島での葛藤を背景に、島尾文学は 開花した。

コラム

・ 太平洋戦争末期の昭和19年、圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に反撃する 日本軍は残された手段のひとつに、特攻攻撃を計画・実行した。有名なのは神風特別攻撃隊だが、そのほかに特殊潜航艇「蛟竜」と 人間魚雷「回天」、それに新設計「海龍」の3種類の水中特攻隊とモーターボートの先に爆薬を付けて高速で敵艦に突っ込む 水上特攻隊「震洋」もあった。
・ 神風特攻隊の指揮官は大西竜治郎中将だが、最初に新妻と母を残して出撃した関大尉を送り出したときに、既に腹を決めていた ようで、敗戦の知らせを聞き、自ら命を絶つことにより、全責任を果した。そして遺言で「特攻は作戦ではなく統率の外道である。」 と言い切っている。

卒業生一覧