* 本記事については神戸新聞のご好意により「学校人脈」(昭和52年12月3日〜28日連載)を 参考とさせて頂きました。お礼申しあげます。

主な卒業生・関係者(敬称略)

浦井 和男

不況下・経済戦線に身を張る

56回生


・ 昭和7年、新設の垂水校舎に入学、卒業後は、神戸高商に入学、さらに神戸商大 (現神戸大学)へ進む。
・ 戦時中の繰上げ卒業、昭和17年軍隊生活に入り、19年航空部隊に配属され、ラングーン、プノンペン、サイゴンを転々とし、 終戦はメコンデルタで迎えた。土地柄、食料は豊富で、加えて紳士的な英軍の支配下で優雅なh慮生活が続いた。だから、敗戦の厳しさ が現実のものとなったのは21年6月、2年ぶりに本土の土を踏んでからである。
・ 帰国まもなく、叔父の勧めもあって、神戸銀行(三井住友)に入行、兵庫支店認定係として赴任したが、いきなり修羅場に放り 出された。その年10月に金融緊急措置令が出て預金が封鎖され、「なんで自分の預金が意のままにならんのか」と預金者のいら立ちが つのり、鉄の棒を持ち込んで振り回さんばかりに威嚇する者もいて、足がすくんだ。
・ 銀行窓口を混乱に陥れたこの金融政策は、旧円の流通禁止に始まった。旧円の預金は一切封鎖され、手持ちの紙幣は1人100円を 限って新円と交換するという方法が強いられた。医療費、株式購入、材料費など、ごく限られた範囲で、しかも「購入証明書」を提示し てはじめて使えるという厳しい制限加えられ、一方、新円の方も、1所帯あたり、500円+家族1人あたり100円までしか支給が 認められなかった。例外として、冠婚葬祭費、授業料などがワク外、また、回収しきれなかった旧円札には流通許可を明示した証紙が 張られていたが、この証紙発行業務も銀行側が取り仕切っていた。窓口ではこうした金の出納にいちいち証明書を点検、基準に合って いるかどうかを確かめなければならない。終戦後百数十倍にはねあがった消費物資も、出た当時はなんとか手に入れようと殺気立つ 市民を前に、複雑な認定事務をこなす。預金者のいら立つ気持ちが痛いほど伝わってくる。身をもって銀行の公的責任を知ることに なる。
・ その後、東京駐在として首都圏に目を配ったが、同期の和田勇(56)が山陽特殊製鋼常務になり去った後は生え抜きとしては 最古参となり唯一の現役として長期不況下、商社のトップの県商卒業生ともども、企業の社会的責任をかみしめながら経済界の第一線で 身を張った。

コラム

・ 金融緊急措置令が出された頃、三井物産本店の営業第一線にいた橋本栄一〔46〕は、 財閥解体のあらしに見舞われる。高松高商を経て三井物産入りをした彼は、戦前バタビア(ジャカルタ)などの海外勤務煮の後、 ゴム・セメント資源などのエキスパートになっていたが、物産解体後、分割会社に再入社、34年には復活した”新生”三井物産に 移籍し、総務部長から専務、副社長になり、46年以降、会長として代表的な商社を支えた。
・ 商社のトップとしては、日商岩井の社長となった植田三男〔49〕がいる。神戸商大から12年に日商入り、鉄鋼部長などを経て、 岩井産業との合併後、専務、副社長、日商岩井米国社長になった。
・ その他、経済界で活躍した卒業生は、永大産業社長川上隆三〔55〕同監査役吉田吉雄〔46〕川崎興産社長外山雅夫〔40〕 同取締役魚住武一(51)大阪商船三井船舶相談役一井(百目木)保造(35〕日産生命保険会長藤本正雄(44)大正海上火災保険 専務山口(塩崎)正夫(54)日清製粉常務田中稔隆(53)米国三井物産社長木村清(59)阪神相互銀行常任幹査役松野茂(52) 阪神アイスパレス社長村上勇(50)太陽漁業副社長中部利三郎(39)らがいる。
 注 会社名は、当時のもので、現在は、合併などで変わっているものがある。

卒業生一覧